源範頼と蒲ザクラ

更新日:2021年05月26日

範頼伝説を探る

悲劇の武将 源範頼

(イラスト)源範頼

 源範頼(みなもとののりより)は、源義朝(みなもとのよしとも)の六番目の子で、頼朝(よりとも)・義経(よしつね)とは異母兄弟の関係にあります。遠江国蒲御厨(とおとうみのくにかばのみくりや・現静岡県浜松市)で生まれたため、「蒲冠者(かばのかじゃ)」ともいわれています。源平の合戦では大手将軍として一ノ谷や壇ノ浦の合戦で活躍し、兄頼朝の鎌倉幕府の成立にも大きな功績を残しました。ところがしだいに頼朝から謀反の疑いを持たれ、建久4年(1193年)、伊豆の修善寺に幽閉されると、ほどなく殺されてしまったといわれています。しかし範頼の死には謎が多く、その後の生存を匂わすような伝説が石戸宿周辺に残されています。

石戸宿の範頼伝説

 石戸宿の伝説では、源範頼は伊豆で殺されずに石戸の地まで逃れ、そこに隠れ住んでいたと伝えています。そして、逃れる際についてきた杖をポンと立てると、それが根付いて蒲ザクラになったというのです。
 範頼伝説は、江戸時代の文献に紹介されていて、その概要は次のとおりです。

  1. 範頼は東光寺周辺に館を構えていた。
  2. 亀御前という娘が早世したため、供養のために阿弥陀堂(東光寺)を建てた。
  3. 範頼は正治2年(1200年)2月5日に病死し、戒名を明巌大居士といった。
  4. 蒲ザクラは範頼のお手植え、または墓標。
  5. 根元にある石塔は、範頼の墓である。
  6. 付近には範頼ゆかりの保養の池・番士坂・慰労の森・納涼台などがあった。

 なお、東光寺には範頼と亀御前の位牌が大切に保管されています。

高尾の範頼伝説

(写真)亀御前の碑

高尾さくら公園付近にも、範頼伝説があります。明治45年(1912年)刊行の「石戸村郷土誌」によると、範頼は横見郡の御所(現吉見町)に隠れ住み、石戸の領主である安達盛長(あだちもりなが)の長女、亀御前を奥方に迎えていました。その後、範頼が伊豆に幽閉されると、亀御前は荒川付近で夫の訃報に接して自刃したため、人々は供養のために石碑と泉蔵院を建立した、と記しています。
 亀御前が範頼の奥方である点、石戸の領主が安達盛長である点は石戸宿の伝説と異なっていますが、範頼が伊豆で最期をとげている点は、比較的史実に基づいています。
 阿弥陀堂の鐘楼の手前には、亀御前の碑と伝わる石塔があります。

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