実体験から『学ぶ』、在りし日の真実 ~北本在住市民が語る”戦争体験記”~

更新日:2025年06月13日

終戦から80年。風化しつつある”戦争”の歴史を、忘れないために。

 広報きたもと 令和7年8月号【特集 終戦80年 平和を『伝える』、『学ぶ』、『考える』。】を掲載するにあたり、北本市在住の人から、戦中戦後当時の体験談を募集し、寄稿いただいた内容を抜粋して掲載をさせていただく運びとなっております。

 この度頂戴した戦争体験記は、どれも当時の状況を緻密に再現されたものばかり。戦争の惨禍を追体験し、過去の反省と、これからの未来における恒久的平和の継続の重要性を理解することにおいて、非常に貴重な内容であることから、いずれの戦争体験記においても、当ページにて全文公開とする運びとさせていただきました。

 体験記を寄稿してくださった皆様におかれましては、当時の悲惨な記憶を思い出す苦しさや辛さを乗り越えて筆を執り、想いのこもった文章をくださいましたことを、この場をお借りして感謝申し上げます。

 以下の体験記が、皆様の心に世界平和を願う気持ちを醸成する一助になれば幸いです。

※原則、寄稿者の文体を保って掲載しておりますが、一部、市職員により加筆修正及び参考注釈を行っております。

 

目次

#Case.01 戦地での体験 『フィリピン・ネグロス島戦記』
#Case.02 本土での体験 『静岡大空襲 ~燃え落ちた母校~』
#Case.03 県内での体験 『熊谷空襲体験記』

 

 

Case.01 戦地での体験 『フィリピン・ネグロス島戦記』

寄稿者:永野 弘之 さん (北本市古市場在住・102歳)

出兵

 招集令状が届き、当初入隊したのが福岡県の太刀洗陸軍第百飛行部隊だった。
 この部隊で2ヶ月位過ごした頃、選抜され群馬県太田市の中島飛行機太田製作所に「応援制作」の形で異動、第三独立整備隊に配属され、各方面から集まった者達の総数約190名と共に飛行機の整備担当となった。

 その後2ヶ月足らずで、戦地へ赴くことに。
 当時21歳であった昭和19年7月、門司港から出港した船団の行く先は、ただ「南方」とだけしか聞かされていなかった。多くの部隊が乗り込み、総数何千人もの兵隊が船倉に荷物同然の様に詰め込まれた。頭と足が互い違いになる様にして寝た。
 午前午後の教育時間は、軍人勅諭・戦陣訓等の朗読暗記。船上での上官の訓示などは話に力もこもり、説得力もあった。甲板では軍歌を声の限り高らかに太平洋に向かって歌う。我々は意気軒高そのものだった。

 数日後、号令演習・軍歌演習が中止に。敵の潜水艦は音波探知機とやらで海原に広がる音声をキャッチし、我々船団の所在が分かるらしい。ということは、そこはもはや安全な日本海域はなく、警戒海域に入ったということだろう。

 一気に緊張が全身に伝わる。

 船団の内訳は、我々が整備担当する最新鋭のエンジン『ハ45 "誉"』が搭載された新鋭飛行機が収納されている空母一隻と、巡洋艦一隻、駆逐艦三隻、そして我々が乗っている『安芸丸』と聞く船。しかし、果たして駆逐艦三隻程度でこの船団を守れるのだろうか?空母を守るのに精一杯ではないだろうか。

参考:ハ45『誉 (ほまれ)』

 中島飛行機(現 株式会社SUBARUの前身)が最後に量産した、レシプロ航空機用超高性能エンジン。

・大日本帝国陸軍最優秀機と称される『四式戦闘機 キ84 通称"疾風(はやて)"』
・陸軍機の疾風と並び大日本帝国海軍最優秀と称される戦闘機『紫電改(しでんかい)』
・爆撃機と攻撃機を兼ねることが可能な多任務艦上攻撃機『流星(りゅうせい)』
・日本海軍唯一の双発式陸上爆撃機『銀河(ぎんが)』
・米軍戦闘機F6F(ヘルキャット)を振り切った「我二追イツク敵機無シ」の電文で有名な艦上偵察機『彩雲(さいうん)』
・零戦を設計した堀越 二郎 氏が零戦の後継機として設計に携わった艦上戦闘機『烈風(れっぷう)』

 等、第二次世界大戦後期に開発された多くの優秀な機体に採用・搭載された。

四式戦闘機
【終戦直後に撮影された四式戦闘機"疾風"】

 

バシー海峡での恐怖

 途中、台湾に一時停泊した。当時、台湾は日本の統治下で物資輸送や海軍基地としての拠点だった。台湾の海岸線沿いにヤシ林が伸びている。水平線に沈む夕日が美しい。ここで初めて、我々の行先はフィリピンらしいとの噂が流れてきた。

 台湾を離れてしばらくすると、船が大きく揺れ始めた。ここバシー海峡は潮の流れも速く波が荒い場所だ。さらに激しい雨風が…。この地域特有のハリケーンにも遭遇したらしく、ほとんどの兵隊が船酔いに苦しめられた。

 突然、甲板・船倉の中を非常警報が断続的に響き渡った。たった今まで虫の息の如く這いつくばっていた兵達が、一斉に雷にでも打たれたように飛び起き、一か所の狭い梯子を我先にと甲板へと殺到する。常に用心の為に携帯しているカボック(浮き袋)を背負っている者もいれば、カボックと背のう(自分用のリュック)を一緒にくくっている者は荷物が大きくなって、狭い通路をスムーズに進めず焦ってパニック状態だ。

 自分が階段を駆け上がるとき、船が異様なきしみ音をたてた。手すりを握っていたが、外れそうになる程強い遠心力を感じた。急旋回しているのだ。どうやら敵の潜水艦の攻撃に遭ったらしい。海上を見ると、斜め横方向彼方から荒れ狂い波を確実にかき分けて水疱を一直線に立てながらこちらに向かってくる。魚雷だ!
 船が悲鳴にも似た軋みを立てて、急旋回する。船が折れるのではないかと思われる程の旋回で体がなぎ倒されそうだ。

 ところが、悪天候で敵は的確に攻撃できなかったらしく、それ以上追撃してこなかった。我々はハリケーンのおかげで、難を逃れることができた。

参考:バシー海峡

 中華民国台湾島南東に隣接する小蘭島と、フィリピン領バタン諸島(バシー諸島)最北のマヴディス島との間にある、南シナ海と太平洋(フィリピン海)を繋ぐ幅約150kmの海峡。

 第二次世界大戦時、石油輸送船団やフィリピンへの増援輸送船団など、日本の重要輸送船団が航行しており、敵潜水艦部隊の格好の作戦場と見なされたことから、多くの艦艇や輸送船がここで撃沈された。

 この海峡で民間人含め約10万人が亡くなったと言われており、そのため『魔の海峡』『輸送船の墓場』という通称で知られている。

 

マニラ・セブ島に一時停泊

 やがて、すでに日本が占領していたフィリピンのマニラに着いた。土を踏むのは何日ぶりだろう。一時間もするとあの激しかった船酔いから開放された。バシー海峡でのハリケーンとの遭遇、そのおかげで敵潜水艦の攻撃を逃れられたこと、今生きていることの喜びを、皆で分かち合った。

 マニラ港一帯は、日本軍の爆撃や戦闘の跡、建物の半壊・崩壊、瓦礫がいたる所に山積みになっていた。大通りから路地に入ると、原住民がアンペラ(竹で編んだ敷物)を敷き、その上に日用品・果物・食料品・タバコ等を拡げて売っている。商人が下から上目遣いで、我々にあいそ笑いを送っていた。
 背のうの中を久しぶりに開けてゴールデンバットを出してみて驚いた。紙に斑点が出てカビている。思えばあの地下倉の様なムシムシする場所、背のうの中はカビて当然だ。試しにタバコを一本、火をつけて吸ってみたが、タバコの味は皆無だった。楽しみが目の前から消えた。カビたタバコを原住民にあげたらパパイヤ1個・バナナ1、2本を黙ってくれた。

 ここマニラでは数日の滞在、目的地はまだ聞かされていない。目的地に行くための船を待っているそうだ。フィリピンは島々であり、各要所に配置するにも、数少ない船での輸送でなかなか思うようにはいかなかったようだが、やがて我が隊の出発となった。

 船は内海の島々を縫って進む。バシー海峡での事があったので、特に静かに感じる。海の水も透明度が高い。穏やかそのものだ。翌日眼前に大きな島が見えてきた。港には船が何隻か停留している。誰かがセブ島であろうと言っていた。
 停泊の僅かな時間を利用して、町へ三々五々散って行く者、岸辺で魚釣りをする者と、各自が束の間の休息を思い思いに楽しんだ。

 やがて再びの乗船。目的地はネグロス島であると、ここで初めて聞かされた。
島々を縫ってゆく船のエンジンの音のみが海いっぱいに拡がってる。いつの間にか天空に月が浮き上がって冴え輝いて海辺に光と影を投げかけている。

 船はゆっくり進んでいき、やがて前方に黒く大きい島が現れた。上官のダミ声で下船準備が告げられた。無事に航海が終わり、生きて下船できる事に安堵した。

 

ネグロス島に上陸

 ネグロス島バコロドに夜間上陸。港には軍用トラックが数台待機していた。トラックがどこをどのようにして走ったか分からないが、一本の道路をうねりながら、やがて駐屯地とおぼしき場所のゲートを潜って入った。宿舎とは思えない大きな建物だった。すでに駐留している兵隊達が広場の前で、待っていたぞという感じで、笑顔いっぱいで迎えてくれた。

 バケツで我々の前に水が運ばれてきた。最初に口にしたものが「甘い」と奇声をあげた。我々は思いもよらぬ砂糖水での接待を受けたのだ。内地にいる頃は、すでに砂糖などは配給制度でなかなか甘味品を口にする事はなかった。砂糖に蟻とはまさにこの事だ。喉を鳴らしながらのひと時であった。説明によれば、ここは砂糖工場や島でできた砂糖の集荷場所でもあり、砂糖は占領品の付属物でもあった。

 部隊と合流した事で心に安らぎを覚えたのか、久々に足を伸ばして床についた

 近々特に戦況が悪化しつつある不安の中、我々と新鋭機18機がこの島に来たことは、言うなれば援軍だ。在来の兵隊達は心強く思ったのであろう。しかし我々は内地より船に乗って運ばれていたため、戦いの戦況など何一つ分かっていなかった。

 出発までの残った時間、在来兵が内地の様子やら内地の何県出身か等を尋ね、同県人であれば同郷のことを聞いては話に花を咲かせている。時間があまりないためか、機関銃のようになにかを尋ねてくるが、言葉が交錯しており、何を言っているのかはよく分からなかった。

 

駐屯地に着く

 当初はここが我々の駐屯地かと思ったのだが、どうやらここからが本来の目的地へ向けての出発だったようだ。トラックが兵を満載にして動き出す。右に左に揺られながら凹凸が各所ある道だ。日本軍が爆撃したものだろうか、破損を簡易舗装したのだろうか。道路が波打っている場所もあり蛇行しながら延々と続く。

 約2時間位は要しただろうか、右手に飛行場が見えてきた。左手はヤシ林でその先は海が見える。飛行場の片隅に長屋風の簡単な兵舎が見える。屋根はヤシの葉と竹でできているニッパハウスだ。昼間は南島の陽が容赦なく照りつける。板壁の囲いは二段棚の物入があるだけ。天井もなくニッパが上手に編んだのが見えるだけ。

 サトウキビ畑が目の前の飛行場の滑走路と平行して果てしなく延びている。この兵舎でこれから先何年過ごすのだろうか?門司港を発って幾日経っただろうか?
 我々より先に門司港を出港した戦団と、我々より1週間遅れて出港した戦団、いずれもバシー海峡で輸送船2隻が米軍潜水艦により撃沈。マニラ港より我々より10日遅れで出発した小隊もバコロド港に着くまでに敵機の急襲を受けて船もろとも沈み、辛うじて若干の兵が他の船に助けられたと聞いた。

 我が部隊は運がよかったのだ。バシー海峡での襲撃も、あの台風ハリケーンも切り抜けて、今ここに在る。

 隊長訓辞があった。戦況は緊迫している。ここもいつ空襲があるか分からない。同じフィリピンの島々で日本軍の飛行場が次々と敵襲に遭っているとのことだ。制空権を確保する為、島々に散在する日本の航空基地をつぶしに攻めてきていると。しかし島に着いて日も浅いため、この村の様子も、島全体も、また日本の戦局も皆目分からなかった。

 兵舎の裏にはにわか作りの流し台がある。その上に細い水道パイプが走っている。この流し台ですべての炊事・洗濯・洗面を賄うのだ。風呂はドラム缶が2つ、囲いなどあるはずもない。

 海の反対側には、手前はシライ山、後ろはマンダラカン山と呼ぶ山々が連なっている。その裏手には反日分子やフィリピン兵が逃げ込んでいるそうで、彼らは集落の一般人の中に潜み、ゲリラ活動要員として満を持して待っているとか。よって、憲兵が目を皿のようにして内偵しているらしい。この飛行場は集落まで1km足らずだが、危険は常に潜んでいることは違いなかった。

 毎日のように自らを鼓舞するため、露営の歌を歌ったものだ。

「いくさする身は かねてから 捨てる覚悟でいるものを 鳴いてくれるな 草の虫 東洋平和の為ならば なんの命が 惜しかろう」

 …この頃までは、まだ悲壮感はなかった。

 

敵機襲来

 その日は、雲一つない快晴だった。

 島の東方向から複数の飛行機の爆音が聞こえてくる。友軍機か?いや、友軍機が着く情報は入っていない。兵が思い思いに兵舎から外へ飛び出した。その時、隊長が避難令を下した。「なるべく飛行機や兵舎から離れた草むらに身を沈めるように」と。

 飛行機の爆音は大きくなる。我々はただ、草むらの中に息を潜め、爆音のみに耳を傾けている。爆音はなお一層大きくなり、空間を圧するというか揺さぶられるというか我々は初めて大編隊を見た。言いようのない興奮を覚えた。
しかし編隊は上空を無事通過していった…。

 狐につままれた感じで草むらから這い出て、過ぎ行く敵機を眺めていたら、先の編隊が再びこちらへ向かってきた。今度は前より高度を低くしてきたかと思ったとたん、先頭の数機の編隊が襲撃してきた。目の前の飛行機が砕かれ、弾け飛び散ったと同時に爆弾の破裂音が地響きを立て、土けむりが舞い上がった。それが繰り返し続く。

 最初の米軍機の機銃掃討から始まり爆弾投下まで、どのくらいの時がたっていたであろうか。暫くして日本の地上部隊の反撃が始まった。飽くなき反撃だったが、いつしか音が絶えてしまった…。

 我ら整備隊は飛行機の整備が任務であり、武器は持たない。そのため敵兵と戦うことはせず、狭い防空壕の中に避難し、緊張しながら息をのんで見ていた。戦地に来て初めて体験する、壮絶な戦いだった。

 やがて敵機が高度を上げて東へ去っていった。最後尾の一機が後尾より煙を吐きながら二転三転して高度が下がっていくのが見えた。これを見た我らは一斉に豪から這い出て、両手を上げ奇声を上げて喜んだ。敵機に損害を与えたのだ。しかし、残念ながら受けた被害の方が甚大で、実態は敵のほぼ思いのままの攻撃だった。我が軍の飛行機は、ほぼ壊滅。そして兵舎も壊滅してしまった。

 今夜は寝る場所を変え野営だ。明朝は早々部落へ戻り、空き家を探し、ヤシ林一帯に散在する民家と交渉だ。

 

壊滅的被害、そして孤立

 その後も、米軍は断続的な空襲を定期的に敢行してくる。既に対空部隊も緒戦で敗れていた。飛行場の飛行機も爆撃空襲で破損し、修理不能なまでのダメージを受け、再出撃できる飛行機は皆無に等しく消滅したも同然だった。

 ネグロス島は日本軍が航空要塞を構築しており、米軍が手痛い損害を被るだろうと日本兵は信じていたが、実際には、毎日の爆撃で穴だらけになった飛行場群に焼け残りの飛行機が若干藪影に隠されているだけであった。日本最高の新鋭機が全滅し、残る飛行機は旧式のものばかりで、それも僅か数える程度だ。我々独立整備隊は飛行機の整備が本業だが、その飛行機もほとんどなくなり、手足をもぎ取られたも同然である。もはや敵の侵攻に反撃する手立てはない。

 この時点で日本本土からの全ての兵器や食料その他物資の輸送は完全に断たれ、我々は完全な孤立状態となった。この場所で手をこまねいては、いたずらに兵の損害につながるとし、山の奥へ移動することになった。言うなれば退却だ。山の奥深くジャングルへ逃れるのだ。

 

ジャングルへ

 我が中隊には数丁の鉄砲しかない。各自の唯一の兵器は腰の帯剣のみ。首脳陣の方針は、今後それぞれの部隊を集結して長期戦に備え、山懐深くに入り発電機を造り飛行機の残骸を再生し、「手りゅう弾や山砲を作る」という。首脳陣の真意は別にあったとしても、あまりに遠大なる構想だ。頷きはするも、果たしてこのひっ迫した戦況の中、しかも山中にてこれが実現可能だろうか?

 移動が決まると、飛行場周辺やあちらこちらに散乱する破壊され放置されていた飛行機の残骸を手ごろに集めて運ぶことになった。飛行機の機関砲など使えるものは取り外し携帯できるように、やぐらを組んで取付け、弾丸も可能な限り運ぶことになった。

 この移動に当たって、我が中隊の兵隊にも戦利品(米軍から奪い取った)の小銃と弾丸がそれぞれ手渡された。小銃を手にすると少しばかり勇気と安心感が湧いてくる。
 もちろん、食料の米・塩・缶詰・他諸々、一切残すことなく運ぶ手はずになった。我が中隊にはトラックは一台もない。梱包され山積みされている物資を一見しただけでうんざりした。これを我々が山奥まで運ぶのに幾日を費やすのであろうか。現人員では一回では運びきれない。繰り返しても数日を要するだろう。

 最初の集積地目指して、山奥の密林の中へ荷物とともに行軍が始まった。ノルマは日に二回と定められ、一回目は朝涼しいうちに出発することになった。早朝、朝露を踏みしめての出発である。

 背のうの紐が両肩にずしりと重くのしかかり、今まで重労働や重量物を背にした事のない自分にはこたえる。しばらく歩いていると、汗がシャツの袖先まで濡らす。午後の運びになると足が重くなる。山裾がそこに見えているが、なかなかたどり着けない。重い荷物が足の運びの邪魔をする。足場の悪い道なき道を喘ぎながらの運搬である。

 道は自然と登り勾配となる。一回目の運搬では兵隊同士の会話もあったが、二回目の午後の運搬になると、遅れる者小休止する者あり、会話もほとんどなくなった。健脚で強靭な体力の持ち主と非力な者との体力の差がでてくる。集積地も間近だと自分を励まし、荷物の下に手をあてがいながら足を踏ん張る。

 ある時、耳をつんざくばかりの轟音と地鳴りが聞こえた。腹まで響くような振動だ。背中の荷物を放り出して地に伏せた。その素早さには我ながら驚いた。しばらくして、海上の敵艦から発射された大砲の炸裂音だと分かった。よもや艦砲射撃までして迫ってくるとは予想外だったが、この一発だけだったようだ。

 最初の集積場までの運搬は三日を費やし、予定より遅れた。皆、体力の消耗と空襲の恐怖とで疲労の色が濃くなってきた。この山の行く手に平坦な道はない。山の背を這い登って進む。むき出しの肌は傷だらだ。湿っぽい樹林の中を行くとき、足や首回りが痒くなった。ヤマビルがいつの間にか何匹となくへばりついて血を吸っている。

 川の流れの音が聞こえる。久しぶりに見る川である。流れが急な川をつたない足取りで渡り進む。清冽な冷たい水だ。苔むす石に腰を下ろし、しばしの憩いをとった。残り少ないタバコを半分に折って、おもむろに火をつけ大きく吸い込む。タバコの煙がゆっくり流れる。全身に吹き出ていた汗が一気に乾いていく。ヤマビルに吸われた傷を水で洗い体を拭くと、すがすがしい気分になった。

 ある日、山の頂上付近で敵の兵隊と遭遇し、鉄砲での撃ち合いとなった。米兵ではなく、オーストラリア兵だったと後に聞いた。

 

疲労困憊

 日々募る疲労、やがて栄養失調により脚気になる者が続出した。足の甲が亀の背のように腫れはじめ、病の進行に伴い腫れは上部に移行。関節までくると歩行困難となり足が丸太のように腫れ上がる。もはや荷物の運搬はおろか、己の体の移動さえままならず、杖を借りねばならぬほどの有様だ。軍医はいないので、衛生兵の判断で運搬業務からの離脱。残りの者にかかる負担は当然だ。

 また時を同じくして、大腸炎や赤痢に罹る者もでてきた。自分も大腸炎に罹り激しい腹痛に襲われ、ある時は20回近い下痢が続いた日もあった。「ここで死んでたまるか」と己を叱咤激励、自分との闘いだった。唯一の薬クレオソートでどうにか下痢も止まり、回復したのは幸いだった。21歳という若さが、命を引き延ばしてくれたようにも思えた。

 皆の疲労の色が濃くなっていく。とうとう自力での歩行が困難になってしまった兵は、そこに置いて行かざるを得なかった。
 隊長がそっと、そういった兵士に手りゅう弾を手渡すのだった…。

 この頃には、もはや己の身の回りの物と食料のみの運搬となっていた。缶詰類もかなり食いつぶし、量も減ったが、運ぶ者も少なくなった。夜はタバコの葉っぱを下に敷いて寝た。米はおかゆにして食べた。ウシガエルを捕まえてきては、ひっくり返し腹を裂いて火にあぶって食べたりもした。ジャングルの中では、毎日食べる事に懸命だった。

 それでも、我々は進んだ。敵兵との銃撃戦により散って行った戦友、歩行困難になり自ら命を断った戦友達の、屍を乗り越えながら…。

参考:脚気(かっけ)

 ビタミンB1が慢性的に不足することで発生する栄養障害病で、正式名称は『チアミン欠乏症』。全身のむくみ、下半身の倦怠感やしびれ、進行するにつれて動悸、息切れ、麻痺症状が発生、更に悪化すると心不全や末梢神経障害を引き起こし、場合によっては死に至る。

 戦時中の兵士は白米を重視しており、副食の摂取が十分ではなかったため、主食に偏った食事が原因となって、脚気患者が大量に発生した。

 

終戦へ

 ある日、中隊長が我々に告げた。
 それは予想もしない、信じられない言葉だった。

「戦争は終わった、日本は降伏した。」

 その後「〇月〇日に山を下りるように」と次の連絡があり、我々は山を下り投降した。広場には米兵が一列に並んでいた。その後は米軍の言うなりだった。我々も一列に並ばされ、拳銃・小銃・弾丸・剣など、持っていた全ての武器を置くよう命じられた。武器を置いたとたんに感じた身軽さは、今でも忘れられない。

 やがて、レイテ島のタクロバン捕虜収容所に輸送され、背中に「PW」(Prisoner of Warの略)と刻印された作業服を着せられた。収容所からの脱走兵の見張り番は、米軍に雇われたフィリピン人だった。ジャングルの中では、あれほど食べることに精一杯の日々だったのに、ここでは食事をたっぷりと与えられたのだった。

 そして、昭和21年12月、ようやく日本へ帰国。3年足らずの徴兵生活が終わった。

参考:ジュネーブ条約

 戦争や武力紛争においても人道的な原則を尊重するための国際的な枠組みを提供するために国家間で合意された国際条約。国際社会全体の信頼と平和を促進する役割を果たしている。

 1864年に最初の条約が採択され、その後、追加の条約が1929年、1949年に改訂され、現在のジュネーブ条約は1949年に採択された4つの条約から成り立っている。

 捕虜の保護は、その中でも特に重要な側面とされており、

  • 人道的に扱われる権利を有し、暴力、脅迫、侮辱、または公然の軽蔑から保護される。
  • 食事と衛生管理、適切な医療を受ける権利が確保される。
  • 特定の状況下で、法的な手続きを受ける権利を持つ。

 といったように、同国の兵士と同等に保護しなければいけないという「捕虜の待遇に関する条約」があり、米国はこの条約を遵守していた。

 第二次世界大戦時における日本では、表向きは条約遵守という形で署名をしたが、軍部らの反対、条約の認知度の低さ、捕虜管理が可能な状況ではなかったこと等、複数の要因により、実態としては遵守されていなかった。

【フィリピン・ネグロス島】

 

 

 

Case.02 本土での体験 『静岡大空襲 ~燃え落ちた母校~』

寄稿者:匿名希望 (86歳)

 私は1938年(昭和13年)生まれで86歳です。私は母方の実家である静岡県静岡市で戦争体験をしました。今から80年前、私が7歳の時にあったことをお話しします。

 

空襲の始まり

 昭和20年6月19日、静岡大空襲がありました。家は爆弾の炎で焼かれ、母は4歳の弟を背負い、7歳の私を10歳の姉が手をひいて、大勢の人々の中を逃げました。

 空からは照明弾(しょうめいだん)という周りを照らすための爆弾が落ちてきて、その後、焼夷弾(しょういだん)という爆弾が無数に落ちてきました。町の中から安倍川橋を渡って向う岸まで逃げたのですが、みんな先を急いでいて、歩みが進まず大変でした。

 爆弾は次々と落ちてきて、目の前で倒れてゆく人、防火用水という火を消すための水を溜めてある入れ物に入って亡くなっている人などを見ながら、やっとのことで安倍川の向う岸に辿り着くと、4月に入学したばかりの校舎が焼け落ちてゆくのが見えました。一晩肩を寄せ合って過ごし、朝になって見渡すと、町全体が焼け野原になっていました。

参考:静岡大空襲

 昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけて、旧静岡市(現 静岡市葵区・駿河区)が受けた空襲。

 マリアナ諸島から来襲した米軍第314航空団の大型戦略爆撃機"B-29"137機により、3時間余りで焼夷弾13,211発が投下され、死者約1,952名、負傷者約5,000名、焼失戸数約30.000戸の被害となった。

 空襲の後、焼け野原となった静岡市街に米軍機が飛び交い、

  • 「早く降伏すれば贅沢ができる」の文字
  • 御馳走の写真

 が印刷されたビラ(伝単)をばら撒いたという。

 この静岡大空襲を含め、静岡市は昭和19年から終戦までに、合計26回の空襲を受けている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伝単

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【爆撃予定都市が記載された、B-29がばら撒いた爆撃予告ビラ(伝単)の一部】

 

空襲の恐怖と隣り合わせの生活

 4月に入学して、上級生に手を引かれながら学校に通っていた時も、敵の飛行機が来ると、地下室のように穴を掘って作った防空ごうの中に逃げ込むような日々で、食べ物も着る物もない生活でした。戦争は人々の命を奪い、自然や建物を破壊します。病気になっても、かかる医者もいませんでした。

 毎日、空襲警報の「敵機来襲」という声がラジオから流れてくると、いつでも逃げることができるように服を着たままで寝ていました。電気も明りがもれないように、黒い布で覆われていました。

 

戦争が無ければ生まれなかった、家族との別れ

 私の父は戦争に行き、台湾の高雄港というところで艦砲射撃に遭い、帰ってきませんでした。家に帰ってきた遺品は、白木の箱に1枚の紙が入っているだけでした。

 第二次世界大戦では、大勢の人が亡くなりました。叔父さん、叔母さん、両親きょうだいを亡くした人がたくさんいました。

参考:高雄港 (たかおこう)

 台湾の南端に位置する港湾で、日本統治時代において近代港湾として開発された。対米軍戦備、燃料供給、給水のための重要拠点として機能した基地であり、高雄湾を防衛するために高雄要塞が建設された。

 昭和19年、台湾沖航空戦において空襲に遭い、多数の船舶が撃沈されたうえ、沈没船による航行障害や港湾設備の破損・機能停止に陥りながらも、終戦直前まで防衛に努め、昭和20年3月、要塞廃止となった。

 現在は、世界12位の物流取扱量を誇る、台湾を代表する港湾として機能している。

 

戦後、現代にかける想い

 戦争が終わって、日本には憲法9条というものができて、戦争をしないと決められ、日本は今、平和が守られている中で暮らしていますが、世界では、ロシアとウクライナの戦いで爆弾により建物が壊され、多くの人々が逃げ惑ったり、亡くなったりしています。他にも、戦争をしている国、起きそうになっている国があります。

 戦争は何一つ良いことはありません。

 皆が互いを認め合い、話し合って、仲良く生活出来るように、これから大人になる皆さんが、平和で安心して暮らせるように願っています。

 1人1人が心がけていけば、きっと安心して暮らせる平和を守ることが出来ると思います。

静岡1

【静岡大空襲当時の様子】

静岡2

 

 

 

Case.03 県内での体験 『熊谷空襲体験記』

寄稿者:石井 宏 さん (北本市荒井在住・86歳)

"夜"が"昼"と化す、衝撃の光景

 それは、私が6歳だった昭和20年、翌15日終戦となることを知る由もなかった8月14日の深夜のことである。

 突然「起きろ!逃げろ!」と言われ飛び起きた。外はサイレンがけたたましく鳴り習き、まるで昼間のような明るさで、いつもとは全く異なった緊迫感があった。

 夜の闇を昼間に変える“照明弾”が炸裂した後、木と紙で出来た家々を油と火で焼き尽す“焼夷弾”がシェルシュルシュルと音をたてて落ちてきた。沢山の人々が逃げていく道を避け、我が家に近接する熊谷女子高等学校の校庭に逃げ込んだのだが、ちょうどそこで、もう少しで2歳になる弟を背負った母の背中が燃え出してしまった。

 大人達が消火作業をしている間に、私はふらふらと校門へ行き、目の前で2階建ての家が真っ赤な炎に包まれ、ゴーッと音をたてて焼け落ちるのを、心ここにあらずといった状態のまま見ていた。

 突然、見知らぬ大人に手を引かれ、少し低い土地にある畑へと逃げ込んだ。少し離れた工場は、炎を吹き上げ然え続けていた。畑には、逃げ込んだ人達があちこちに固まって身を寄せ伏せていた。

 突然、1人の大人が「おっかねぇ、おっかねぇ。死にたくねぇ、助けてくれ!」と大声を出した。すると、すかさず「うるせえ!黙れ!そんなでっけえ声を出すと敵に聞えるぞ!」と別の男が怒鳴った。

 子供心に聞えるはずはないと思うものの、時に低空で飛んでくる米軍B-29爆撃機の操縦士には、もしかしたら聞こえるのかもしれない、と恐ろしかったのを覚えている。

参考:ボーイング B-29

 第二次世界大戦中にアメリカ合衆国で開発された長距離戦略爆撃機で、通称"スーパーフォートレス"(Bは"Bomber(爆撃機)"の略)。

 1942年に開発され、1944年から米軍による実戦投入が開始された。機体の製造特徴から、他の爆撃機よりも高い高度(通常30,000フィート以上)を飛行することができ、敵の防空ミサイルや戦闘機からの攻撃を避けることができた。また、高速飛行・長距離航行・重い爆弾の搭載も得意としており、通常爆弾だけでなく、焼夷弾も投下可能な性能を持つ。

 終戦直前に原子爆弾投下用として改修を施した特殊仕様の"Silverplate(シルバープレート)"と呼ばれる機体が開発され、広島・長崎への原爆投下に総数15機が投入された。終戦後にビキニ環礁で行われた米軍の核実験『クロスロード作戦』においても、B-29  Silverplate仕様が使用された。

B-29

【"超空の要塞"を意味する通称で知られる ボーイング B-29 "スーパーフォートレス"】

 

焼野原となった"熊谷"

 何時の間にか空も静かになり、陽の先で明るくなってきた。その後、我が家が空襲に遭わず残っていたことが確かめられたため、皆して帰った。

 我が家と隣家の間に焼夷弾が落ちたのか、その家を始め風下は全て焼け野原となっていた。この空襲で熊谷の市街地の3分の2が焼失し、266人もの死者が出たとのことである。もう1日早く終戦となっていればこうした惨事はなかったのにと残念でならない。

 その後、市街地を流れる星川で亡くなった多くの人々を供養し、平和を祈願するための『星川とうろう流し』が、昭和25年から毎年8月16日に行われるようになった。

 

米軍の隊列

 終戦後間もなく、熊谷大通り(現在の国道17号線)を、米軍の車両や戦車が、隊列を組んで事音を響かせながら深谷方面へ下っていくのを目撃した。

 巨大な戦事で大砲を伸ばし、半身を出した米軍の兵隊は、前を見据え堂々として周囲を威圧していて、それを恐ろしく唖然として見ていた。

 

戦後の熊谷駅で見た、切ない光景

 戦後数年間、熊谷駅には、片手、片足、両足等を失った傷病軍人が、戦闘帽をかぶり白衣を着て、ある人はひざまずき、またある人は松葉杖で身体を支えながら、アコーディオンを弾き投げ銭を乞う姿があった。

 そうした人達を見るたびに悲しい気持ちになり、国のために生命をかけて戦った人達なのにと、子供心にも悔しく切なく思ったのを覚えている。

 

現在も続く戦争、平和に対する強い想い

 戦争はごく当り前の日常生活を奪い取り、人としての心や人間性を失わせる。今も世界のあちこちで戦争が行われている。戦争の悲惨さ、理不尽さ、愚かさを再認識し、直ちに止めてもらたい。

 平和の有難さ、尊さを思い、平々凡々でもごく当り前の生活が送れて、誰もが快適で幸せな日々暮しが続けられる世界でなければならないのである。

 二度と戦争を起してならない。

熊谷大空襲

【空襲後に撮影された熊谷市街地・市内西部の石原地区。右上から左下を通る道路は中山道。】

 

 

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