きたもとの桜と伝説2~源範頼ゆかりの地を訪ねて

更新日:2021年03月31日

投稿者(市民リポーター)大嶋佐知さん

市民リポーターの大嶋佐知です。

4月には石戸蒲ザクラも見ごろを迎えますね。

見ごろを迎える蒲ザクラと、根本におかれた墓標の写真

この蒲ザクラの根元にある石塔は源範頼(みなもとののりより)の墓標だといわれています。

範頼…北本市に転入してきて初めて耳にした武将です。

とはいえ、市の特産品やこだわりの和菓子の名前に冠されていることが多いので北本市民にとっては身近な人物かもしれませんね。
(注意:平成11年8月20日「範頼」は商標登録されました)

北本市のホームページによれば、『源範頼(みなもとののりより)は、源義朝(みなもとのよしとも)の六番目の子で、頼朝(よりとも)・義経(よしつね)とは異母兄弟の関係にあります。遠江国蒲御厨(とおとうみのくにかばのみくりや・現静岡県浜松市)で生まれたため、「蒲冠者(かばのかじゃ)」ともいわれています。源平の合戦では大手将軍として一ノ谷や壇ノ浦の合戦で活躍し、兄頼朝の鎌倉幕府の確立にも大きな功績を残しました。ところがしだいに頼朝から謀反の疑いを持たれ、建久4年(1193年)、伊豆の修善寺に幽閉されると、ほどなく殺されてしまったといわれています。しかし範頼の死には謎が多く、その後の生存を匂わすような伝説が石戸宿周辺に残されています』

蒲冠者範頼と蒲ザクラ…。
遠くはなれた蒲の地から北本へやってきて、蒲ザクラは北本の大地へ根付き、範頼は北本の人の心に根付きました。

範頼は、同じ兄弟でも頼朝や義経とは異なり資料や文献が少なく、生い立ちやその最期などにも謎の多い人物です。

範頼の謎に迫るべくゆかりの地を訪ねました。

生まれ

大きな木が囲む参道の奥に佇む神社の写真

静岡県浜松市東部一帯の蒲御厨(かばのみくりや)といわれています。

浜松最古の神社蒲神明宮(かばしんめいぐう)は地域の守り神。

範頼は、蒲冠者(かばのかじゃ)・蒲(かば)殿(どの)などと呼ばれたそうです。

父は源義朝、母は遠州池田宿の遊女とされます。
河内源氏の嫡流の義朝の子ですので、その存在はいろいろな意味で政治的な思惑の対象となったのかもしれません。

前半生

赤い旗と石標柱・木が植えられた階段と神社の写真

意外なことに、北本市のお隣吉見町にも範頼の伝説があるのです。

父義朝が平治の乱(1159年)に敗れたため平家に追われた範頼が稚児僧として吉見町安楽時(吉見観音)で暮らしていたという伝説が残っています。
山門へ続く階段わきには「蒲冠者源範頼旧蹟」の碑。
案内看板には『平治の乱後には、源範頼がこの地を領するようになり、本堂と三重塔を建立したと伝えられる』とあります。

吉見御所の入り口に立つ石標柱と生い茂る木々の写真

同じく吉見町の息障院(そくしょういん)境内には範頼の館跡、吉見御所があります。
範頼没後、子孫5代にわたってこの館跡に居住し吉見氏を称したそうですが、謎も多い館跡ですね。

ちなみに、「北本のむかしばなし」では範頼についてこんなふうに記されています。

『範頼や兄弟が成長すると、平氏は兄弟たちの仕返しをおそれて、きびしく見張るようになりました。生命の危険を感じた範頼は、平氏の目のとどかないところをさがし、あちらこちらとうつり住みました。そして、やっと石戸にたどりついたのです』

石戸宿の堀ノ内館に安心して住める場所を見つけた範頼は、亀御前を妻に迎え、平和で幸せな日々を送ったという昔話です。

平家追討・伊豆に幽閉

吾妻鏡に初めて登場した記述は、叔父志田義広討伐にあたり「蒲冠者源範頼同じく馳せ来らる所なり」という部分です。
寿永3年(1184年)頼朝の代官として木曽義仲追討に参戦、一ノ谷の戦いでは大手軍を率いて進軍、九州征伐、壇ノ浦の戦いを経て源平合戦に終止符が打たれます。

範頼ゆかりの地が三重県鈴鹿市にもあるというので行ってみることに!

石標柱の奥にある鳥居とお社、看板の写真

鈴鹿市石薬師の「蒲冠者(がまのかじゃ)範頼之社」です。

お社の近くにある開花前の蒲桜の写真

社の近くには石薬師の「蒲(がま)桜(ざくら)」があります。
『寿永(1182~84)の頃、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと言われている。そのため、俗に「逆桜」とも言われている』
(石戸蒲ザクラの由来と似ていますよね~!)

ところが、『弟の義経が兄の頼朝と争いころされるという悲しい事件が起こったのです。それからしばらくして、こんどは、こともあろうに範頼が頼朝からあらぬ疑いをかけられ、伊豆の修善寺におしこめられて、とらわれの身となってしまいました』(「北本のむかしばなし」より)

最期

建久4年(1193年)伊豆の修禅寺(信功院)に幽閉されその後誅殺されたといわれています。

信功院跡(庚申塔のみ現存)

木製の立て看板と石が積み重なった庚申塔の写真

修禅寺に隣接する日枝神社参道にありました。

伊豆修善寺 源範頼の墓

高台の階段上にある源範頼の墓の写真

修禅寺は弘法大師空海が大同2年(807年)に開基したと伝わる古刹です。鎌倉時代に源氏一族興亡の舞台となりました。
範頼の墓は修禅寺から500メートルほど離れた静かな高台にありました。
左わきの碑には「從五位下参河守源範頼公墓」と刻まれています。

駒塚(浜松市稲荷山龍泉寺から南方に50メートル)

数々の植木と白い駒塚の写真

伊豆修禅寺で殺害された範頼。範頼が可愛がっていた馬が、範頼の首をくわえ、範頼の別荘のあった飯田町(稲荷山龍泉寺)まで走り続け、池のまわりを三回まわって倒れたと言い伝えられています。
この地は愛馬を葬った駒塚であり、馬頭観音菩薩像に見守られています。
龍泉寺には範頼の供養塔があります。

落ち延び伝説

日本各地に範頼の落ち延び伝説が残されています。

横浜市金沢区太寧寺 源範頼の五輪塔

源範頼の五輪塔が並んでいる後ろに大小の卒塔婆が並んでいる写真

太寧寺の寺伝では範頼は鉈切まで逃れて、海に向かって建つ太寧へ入って自害したとされています。墓地・五輪塔・本堂等は昭和18年に瀬ケ崎から現在地へ移転しました。
太寧寺の名は範頼の法名「太寧寺殿道悟大禅定門(たいねいじでんどうごだいぜんじょうもん」からつけられたもので、同寺には位牌や画像が寺宝として遺されています。

吉見観音(埼玉県吉見町)

大きな木と植木の間にそびえたつ立派な吉見観音が建っている写真

埼玉県比企郡は源頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま)ゆかりの土地です。修禅寺から逃れた後、吉見町に隠れ住んだという伝説が残されています。

北本市東光寺 範頼の墓標

薄ザクラの木の根元に墓標が右斜めに傾いて置かれている写真

松浦静山の『甲子夜話(かっしやわ)』の中で、「『石部(戸)領蒲桜之由来』によると、東光寺は範頼の配所の旧蹟である。正治2年(1200年)に47歳で自害したのは哀れである。範頼の墓を阿弥陀堂の側に作り、御廟に桜を植えさせ末代の印と決めたのが蒲桜である」と書かれています。

他にも鳥取県鳥取市霊石山や愛媛県伊予市上吾川、広島県広島市佐伯区などに範頼の落ち延び伝説があるそうですが、北本市民の私としては、範頼は北本へ落ち延びたのち亀御前と穏やかな余生を送った説を押したいです。

北本市内西部には古くから鎌倉街道と伝わる古街道が南北に通っていますよね。
街道を通じて鎌倉と結びつきのあった北本は範頼にとって馴染みのある土地だったのではないかな、と思うのです。

それに何より、範頼の植えた石戸蒲ザクラが範頼を守るかのように範頼の墓標を抱いて花を咲かせる姿にとても心打たれます。

800年前のこと、蒲ザクラに聞いてみたいですね~